蛸薬師堂 永福寺
永福寺の歴史

蛸薬師堂は、正式な名前を
「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」
と言い、
元は二条室町にありました。
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養和元年(1181年)安徳天皇の御世、室町に一人の富者がおり、髪を落とし林秀と号していました。
比叡山の根本中堂の薬師如来様を深く信仰しており、比叡山までの月参りを長年にわたって行っておりました。
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老年になったある日、林秀は薬師如来様の仏前で、
「私も、年老いて年来の月参りも出来なくなります。どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい。」と祈願いたしました。
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その夜、夢枕に薬師如来様が現れ、お告げになられました。
「昔、伝教大師(最澄)が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。これを持ち帰るがよい。」
林秀は大喜びし、翌日薬師如来様の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石の御尊像を得る事が出来ました。
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この尊像を持ち帰り、六間四面のお堂を建立し永福寺と名付けましたのが、蛸薬師堂の始まり。利生盛んで、たくさんの老若男女が参詣し門前も栄えたということです。
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豊臣秀吉の時代、都の東の端の城壁代わりに、大きなお寺ばかりが集められた時、蛸薬師堂 永福寺も二条室町から移されました。
元々は総本山「圓福寺」というお寺と並ぶ形でおりましたが、幕末の焼失・明治維新の区画整理などから、愛知県岡崎市の長沢松平家菩提寺の「妙心寺」と寺号交換し、永福寺の内に本尊を安置し、法性山無量寿院妙心寺となりました。
そのため、永福寺と妙心寺は、同じ土地に2つお堂があり、薬師瑠璃光如来・阿弥陀如来と、仏さまがお二人おられる、珍しいお寺となりました。
また移された後も、癌封じや病気平癒・厄難消除に霊験のある蛸薬師如来様を参拝する人々で賑わったことから、参道を「蛸薬師通」と呼ぶようになりました。
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